2008年03月07日
晴時々雨、後、笑い
いつもと変わらない風景。
曇りが覆い尽くし、まぁ、大丈夫であろうとその場を後にしたらやがて味わった事に無い大雨にあった。
3月2日日曜日
4日に22:00過ぎに技術さんとの打ち合わせがあるので、映像と台本などをまとめて遅くなりまとめきれずに明日の作業にしようと朝方に就寝。
3月3日月曜日
10:00過ぎに起床。
メールと電話が6:00過ぎに入っており、父が入院したとの連絡。
昨日の作業と昼から打合せがあったので、早く切り上げて病院に行く。
打合せを終え、17:00過ぎに病院に到着。
母と姉が父の傍に。
父、酸素ボンベ?なのかどうか解らないが(多分、そうであろう。)を当てて、「コーホーコーホー・・・・。」
意識が無い。
苦しそうに見えるが、本人は苦しくないらしい。と、病院の主治医の談。
「何時までおれる?」と、母。
「うん?特にまだ作業残ってるけど、明日でもいけるから特に考えて無いけど・・・。」
「そう。ほなもうちょっとしたら帰るから。」
「何も食べて無いんやろ?何か食べておいで。」
母から1000円貰う。
「えぇ~よ。」
「あんた、戻って来たら帰るから。」
「・・・解った。」
と、病院を後にする。
例え本人が苦しくなかったとは言え、酸素ボンベでコーホーコーホーの父の姿は傍目から見ると苦しそうに見える。
その姿を見てスグに食事は出来ねぇ・・・よ・・・。
先ほどの打合せで決まった内容などを芸人さんに連絡をする。
しかし、皆、留守電。
とりあえず、何か食べようかな?と、近くの新○岡C○○Yへ。
ブラっと店の前を行くものの、食欲は無いので、結局、缶コーヒーと煙草で一服。
18:00病室へ戻る。
「何か変化あったら連絡して。」と姉。
「病院やし、もぅ電源、切ってしまった。」
母&姉、帰宅。
父の姿を見、たまに手を握ったりしながら、2時間が経過。
20:00 面会時間が終わりの時間。
「ほな、明日、また、来るから。」
病院を後にし、地下鉄に乗車。
難波まで。
難波の改札を出て地上へ。
駐輪している場所へ。
メールが一件。
「父の血圧が低下。戻って来て。」姉から。
私が病院を後にしてわずか15分後のメッセージの記録時間。
病院から難波までは約30分かかる。つまり、15分前のメッセージ。
Uターンして、病院へ戻る。
21:15
病院のエレベーターに乗り、4階へ。
扉が開くと、母と姉。
母の一言。
「10分前。」
え?
え?
10分前?
私が病院を後にして15分後に病状が悪化。
病院に到着する10分前に。
今まで意識した事の無い、時間の重みを知る。
出て15分。戻る10分前。
まって、15分前まで何ともなかったやん。
おかしいやん。
なんでやねん。
病室にて看護師数名が作業を進めている中、1階へ降りて、とりあえず缶コーヒーを手に吉本で一番お世話になっている方に一応、報告にメールを入れる。
18:00、病室に到着した時に「今日、明日がヤマ。」と、言われた。
20:00、何事もなく病院を後にした、その15分後。
「また、明日な。」
明日が来なかった。
親戚や代々お世話になってる御寺や葬儀屋へ連絡などの段取りをする母。
葬儀屋の車が着き、その場所へ。
到着し、父を安置するカプセルのようなものへ運ぶことになるのだが、男手がいるとのことでジャンバーを脱ぐと緑色のジャンバーが姿を表す、私の姿。
「なんで緑やねん。」
「私もそう思ったわ。」と、姉。
「そんなつもりで今日来てへんねん。」
と、父を運ぶ。
色々と葬儀の段取りを葬儀屋さんの説明を受ける、母と姉。
身内だけで式を行う事に。
葬儀屋を後にして、終電で帰るも既に無く、母から自転車を借りて阿倍野まで帰る。
メールが一件。
唯一報告した吉本の社員さんから「お通夜と葬式の日時が決まったら教えて下さい。」と。
・・・あぁ、今後の仕事のスケジュールの事もあるからなぁ・・・、早く連絡しておこうと、信「明日4日19:00からお通夜、5日12:00から葬儀を行います。身内だけで行うことにしました。」
そう、6日の夜に奈良で営業あるから、この業界何か変化があったら早目早目に報告する方が後のフォローがしやすいのだ。
でも、心の半分以上のどこかで、お通夜と葬儀に来て頂くのではないかな?と、思った。が、忙しい中わざわざ来て貰えるはず無い。と。
打合せで訪れ帰り際に「今から実家に戻ります。父が入院したんで。」
それで、こんな報告になるとは、今日のあの時間。
まさか、こんな報告をすることになるなんて・・・。
翌、3月4日火曜日
吉本の社員さんから返信アリ。
「身内だけという事ですが、出席しなくて良いのですか?とにかく気を落とさずに頑張って下さい。」と。
スグに電話。
来て頂ける気持ちだけで充分です。父も退職して数年なりますし、連絡しない方向です。だから、来てもひとりだけになりますよ。
断り、そして、励まして貰いながら・・・ありがとうございます。
父を奇麗な状態にする(エンバーミングというらしい)をして貰う。
うめだ花月の技打ちが今日というのもあって、とりあえずやってしまわないといけない作業と昨日の打合せの内容をまとめ、午前中~13:00頃に終え、実家へ。
電車で戻ろうと思ったけど、自転車が無いと何かを取りに帰ったりするのに必要だろうと自転車で戻る。
エンバーミングをするので、早く戻っても何もしようがないのもあるから、急がなかったのも事実だ。
実家到着して約60分後、式場へ。
15:00、親戚一同が集まり泣きながら出迎えて貰う。
父は10人兄弟。
昭和19年生まれなので、その当時の背景もあるので実質7人兄弟であるが・・・。
とりあえず、多いのは確か。
何時だったろう?
エンバーミングを終えて父が帰って来た。
男数人で父を運ぶ。
狭くて、冷たい、棺桶。
しかし、家族と父の兄弟が周りにいる分、広くて、あったかい棺桶となったと思う。
19:00、お通夜が始まる。
お経が場内に響く。
母の高校時代の友達、姉の仕事関係の方々・・・式場へ。
ありがとうございます。
お通夜が終わりってから、身内だけって言うたけど・・・あれ?もしかして断らなくって良かったのね。と、ちょい、思ったりした。
姉曰く、報告したものの来るとは思っていなかったらしい。
そして、控室に置いていた携帯に吉本の社員さんから「せめて、弔辞だけでも・・・・。」と。
親戚一同、お寿司を食べながら・・・
20:45、式場を後にして、うめだ花月へ。
23:00、技打ちを終えて式場へ戻る。
既に皆さん帰宅され、おじ2名とお通夜に仕事で出れなかった従兄弟が待っていてくれた。
ありがとうございます。
色々話をしつつ・・・。
日付が変わる。
3月5日水曜日。
0:00、従兄弟が帰宅。
「お風呂入っておいで。」と、おじ。
湯船に浸かり、出てビールの栓を開けてグラスに注ぎ、父の処へ。
お酒が元で病気になった父。
2年前に入院して、そして、退院してから一滴も酒を口にできなかった父。
お酒を飲もう。
一緒に。
せめて、今夜、一晩。
「もう、お酒を飲んでいいんだよ。」
おじも一杯付き合ってくれた。
思いで話もいっぱいしてくれた。
長男。
自慢の兄。
怖い兄。
バイトして家計を支えて、時間があればいつも勉強していた、兄。
そんな兄をいつも自慢していたという。
俺はアホやったけど、兄は凄い、尊敬出来て自慢していたという。
始めて聞くような話ばかり。
そして、よく喋りはる。
で、また、聴き上手で私の話に合わせてくれたり、気を使って貰った一面もありながら。
面白い人です。
昔、吉本に入りたかったらしいです。
父(=祖父)に相談したら、勘当すると言われて諦めたとか。
そんな時代やったんやね。
今でこそ、吉本を目指す若い人をア反対する親いてるでしょうが、当初に比べたら減ってるでしょうね。
それだけイメージを上げていった企業が吉本というのもまた凄いとは思う。(話が反れ過ぎたが。)
そして、朝方、シャワーを浴びて、準備。
続々と登場して、懐かしい父のアルバムを母が持って来たので、それを見ながら時を待つ。
12:00、葬儀。
13:00、お別れの時が来た。
父の胸元に手を置く。
ツー・・・と、涙。
父の好きだった物、本、阪神グッズそのほかいろいろ入れられる。
周りからすすり泣く声。
私は、泣かないつもりでいた。
一枚の紙。
姉が20年ほど前に書いた「禁酒!」と、書かれた紙。
その横に「もう、飲んでもイイんだよ。よく、我慢したね。」
日本酒を蓮?の葉に乗せ滴を父の口へ運ぶ。
この作業が、私の涙腺の蛇口を全開にした。
もう、止まらない。
ブログでお酒のクダリを書いてる今も蛇口やばい。
祭壇に飾られた花などで覆う。
「・・・今まで、ありがとうございました。」
いよいよ、蓋が閉じられ・・・・
13:00、火葬場。
もう、何も言えない。
最後まで見届けよう。
これは見ておかないといけない。
そして、火葬場の扉が閉じられて一礼。
蛇口は開けっ放し。
そして、待合室で食事。
食えるかいな。
いや、皆さんが思ってるよりガラスなんですよ。
ホント。
だって、入院したその日の夜、食べに行く事を勧められて結局、食べなかったんだから。
でも、余った食事の分2人分完食。
(余って勿体ないのもあるけど、その前に食べるのも礼儀と思った。)
その前に、よく食べるのは家族ほか周りに私のこれまでのイメージでもある。
・・・食べようと思ったら食べれるんやね。
そして、納骨の時間。
焼けて、何も無い、姿に、また、蛇口が開く。
バスに乗って式場へ。
親戚ほかも帰り、家で祀る段取りを済ませて、昔のアルバムを引っ張り出して来て食事をしながら見る。
帰宅。
深夜、ひとりになると気持ちどうしようも無く、ビール片手にスーパーへ。
スーパーの前でたいよう・高須と遭遇。
つい、訃報を話してしまう。
そんな事聞かされても芸人もコメントできる訳無い。
ゴメンナサイ。
つい・・・芸人の皆さんに仕事の報告が遅れている事情を伝えていたら、そういう流れで、つい、なんです。
すいませんでした。
3月6日木曜日
徹夜というのもあるので、思ったより眠れた。
起床してTVを付けると「なるとも!」。
あぁ、今、この時間なんか。と。
作業があったのでしないといけないが、する気になれない。が、するしかない。
ちょこちょこと比較的簡単な作業を。
誰かと話をしないとどうしようもない気持ち。
今日は森ノ宮で担当している専門学校の進級公演と奈良で営業(余興)。
2~3日の出来事は勿論伏せておいて、生徒と話をしていると元気が出てきた。
人間ってイイですね。
パワーくれますね。
そして、集合時間が近かったので短時間でその場を後にし、難波で待ち合わせていた芸人と奈良へ。
人を元気にさせる笑売。
舞台でもその芸人さんとその修学旅行生のお客さんからパワーを感じました。
辛い、悲しい、これがひとつ胸に、また、自分を強くする。
気持ちが強さ。
人間って、イイよね。
父へ
これからも見守って下さい。
これまでありがとうございました。
追伸
父は姉を溺愛していた。
パスケースには幼少の姉の写真がいつも入っていて持ち歩いていた。
これが父のパワーの源だったのかもしれない。
30年近く持ち歩いていた。
それ、天国へ持って行く時、あの中へ入れ忘れた様な気がする。
少し、心残り。
長文、読んで下さった皆様、ありがとうございました。
個人的なブログで書くのは止めておこうと思っていたのですが、この数日間の出来事はやはり記録として個人的に残しておかないといけないと感じた次第です。
まだ、いろいろあったのですが、かなりハショって書きました。
これからも頑張ります。
頑張らないといけないから。
曇りが覆い尽くし、まぁ、大丈夫であろうとその場を後にしたらやがて味わった事に無い大雨にあった。
3月2日日曜日
4日に22:00過ぎに技術さんとの打ち合わせがあるので、映像と台本などをまとめて遅くなりまとめきれずに明日の作業にしようと朝方に就寝。
3月3日月曜日
10:00過ぎに起床。
メールと電話が6:00過ぎに入っており、父が入院したとの連絡。
昨日の作業と昼から打合せがあったので、早く切り上げて病院に行く。
打合せを終え、17:00過ぎに病院に到着。
母と姉が父の傍に。
父、酸素ボンベ?なのかどうか解らないが(多分、そうであろう。)を当てて、「コーホーコーホー・・・・。」
意識が無い。
苦しそうに見えるが、本人は苦しくないらしい。と、病院の主治医の談。
「何時までおれる?」と、母。
「うん?特にまだ作業残ってるけど、明日でもいけるから特に考えて無いけど・・・。」
「そう。ほなもうちょっとしたら帰るから。」
「何も食べて無いんやろ?何か食べておいで。」
母から1000円貰う。
「えぇ~よ。」
「あんた、戻って来たら帰るから。」
「・・・解った。」
と、病院を後にする。
例え本人が苦しくなかったとは言え、酸素ボンベでコーホーコーホーの父の姿は傍目から見ると苦しそうに見える。
その姿を見てスグに食事は出来ねぇ・・・よ・・・。
先ほどの打合せで決まった内容などを芸人さんに連絡をする。
しかし、皆、留守電。
とりあえず、何か食べようかな?と、近くの新○岡C○○Yへ。
ブラっと店の前を行くものの、食欲は無いので、結局、缶コーヒーと煙草で一服。
18:00病室へ戻る。
「何か変化あったら連絡して。」と姉。
「病院やし、もぅ電源、切ってしまった。」
母&姉、帰宅。
父の姿を見、たまに手を握ったりしながら、2時間が経過。
20:00 面会時間が終わりの時間。
「ほな、明日、また、来るから。」
病院を後にし、地下鉄に乗車。
難波まで。
難波の改札を出て地上へ。
駐輪している場所へ。
メールが一件。
「父の血圧が低下。戻って来て。」姉から。
私が病院を後にしてわずか15分後のメッセージの記録時間。
病院から難波までは約30分かかる。つまり、15分前のメッセージ。
Uターンして、病院へ戻る。
21:15
病院のエレベーターに乗り、4階へ。
扉が開くと、母と姉。
母の一言。
「10分前。」
え?
え?
10分前?
私が病院を後にして15分後に病状が悪化。
病院に到着する10分前に。
今まで意識した事の無い、時間の重みを知る。
出て15分。戻る10分前。
まって、15分前まで何ともなかったやん。
おかしいやん。
なんでやねん。
病室にて看護師数名が作業を進めている中、1階へ降りて、とりあえず缶コーヒーを手に吉本で一番お世話になっている方に一応、報告にメールを入れる。
18:00、病室に到着した時に「今日、明日がヤマ。」と、言われた。
20:00、何事もなく病院を後にした、その15分後。
「また、明日な。」
明日が来なかった。
親戚や代々お世話になってる御寺や葬儀屋へ連絡などの段取りをする母。
葬儀屋の車が着き、その場所へ。
到着し、父を安置するカプセルのようなものへ運ぶことになるのだが、男手がいるとのことでジャンバーを脱ぐと緑色のジャンバーが姿を表す、私の姿。
「なんで緑やねん。」
「私もそう思ったわ。」と、姉。
「そんなつもりで今日来てへんねん。」
と、父を運ぶ。
色々と葬儀の段取りを葬儀屋さんの説明を受ける、母と姉。
身内だけで式を行う事に。
葬儀屋を後にして、終電で帰るも既に無く、母から自転車を借りて阿倍野まで帰る。
メールが一件。
唯一報告した吉本の社員さんから「お通夜と葬式の日時が決まったら教えて下さい。」と。
・・・あぁ、今後の仕事のスケジュールの事もあるからなぁ・・・、早く連絡しておこうと、信「明日4日19:00からお通夜、5日12:00から葬儀を行います。身内だけで行うことにしました。」
そう、6日の夜に奈良で営業あるから、この業界何か変化があったら早目早目に報告する方が後のフォローがしやすいのだ。
でも、心の半分以上のどこかで、お通夜と葬儀に来て頂くのではないかな?と、思った。が、忙しい中わざわざ来て貰えるはず無い。と。
打合せで訪れ帰り際に「今から実家に戻ります。父が入院したんで。」
それで、こんな報告になるとは、今日のあの時間。
まさか、こんな報告をすることになるなんて・・・。
翌、3月4日火曜日
吉本の社員さんから返信アリ。
「身内だけという事ですが、出席しなくて良いのですか?とにかく気を落とさずに頑張って下さい。」と。
スグに電話。
来て頂ける気持ちだけで充分です。父も退職して数年なりますし、連絡しない方向です。だから、来てもひとりだけになりますよ。
断り、そして、励まして貰いながら・・・ありがとうございます。
父を奇麗な状態にする(エンバーミングというらしい)をして貰う。
うめだ花月の技打ちが今日というのもあって、とりあえずやってしまわないといけない作業と昨日の打合せの内容をまとめ、午前中~13:00頃に終え、実家へ。
電車で戻ろうと思ったけど、自転車が無いと何かを取りに帰ったりするのに必要だろうと自転車で戻る。
エンバーミングをするので、早く戻っても何もしようがないのもあるから、急がなかったのも事実だ。
実家到着して約60分後、式場へ。
15:00、親戚一同が集まり泣きながら出迎えて貰う。
父は10人兄弟。
昭和19年生まれなので、その当時の背景もあるので実質7人兄弟であるが・・・。
とりあえず、多いのは確か。
何時だったろう?
エンバーミングを終えて父が帰って来た。
男数人で父を運ぶ。
狭くて、冷たい、棺桶。
しかし、家族と父の兄弟が周りにいる分、広くて、あったかい棺桶となったと思う。
19:00、お通夜が始まる。
お経が場内に響く。
母の高校時代の友達、姉の仕事関係の方々・・・式場へ。
ありがとうございます。
お通夜が終わりってから、身内だけって言うたけど・・・あれ?もしかして断らなくって良かったのね。と、ちょい、思ったりした。
姉曰く、報告したものの来るとは思っていなかったらしい。
そして、控室に置いていた携帯に吉本の社員さんから「せめて、弔辞だけでも・・・・。」と。
親戚一同、お寿司を食べながら・・・
20:45、式場を後にして、うめだ花月へ。
23:00、技打ちを終えて式場へ戻る。
既に皆さん帰宅され、おじ2名とお通夜に仕事で出れなかった従兄弟が待っていてくれた。
ありがとうございます。
色々話をしつつ・・・。
日付が変わる。
3月5日水曜日。
0:00、従兄弟が帰宅。
「お風呂入っておいで。」と、おじ。
湯船に浸かり、出てビールの栓を開けてグラスに注ぎ、父の処へ。
お酒が元で病気になった父。
2年前に入院して、そして、退院してから一滴も酒を口にできなかった父。
お酒を飲もう。
一緒に。
せめて、今夜、一晩。
「もう、お酒を飲んでいいんだよ。」
おじも一杯付き合ってくれた。
思いで話もいっぱいしてくれた。
長男。
自慢の兄。
怖い兄。
バイトして家計を支えて、時間があればいつも勉強していた、兄。
そんな兄をいつも自慢していたという。
俺はアホやったけど、兄は凄い、尊敬出来て自慢していたという。
始めて聞くような話ばかり。
そして、よく喋りはる。
で、また、聴き上手で私の話に合わせてくれたり、気を使って貰った一面もありながら。
面白い人です。
昔、吉本に入りたかったらしいです。
父(=祖父)に相談したら、勘当すると言われて諦めたとか。
そんな時代やったんやね。
今でこそ、吉本を目指す若い人をア反対する親いてるでしょうが、当初に比べたら減ってるでしょうね。
それだけイメージを上げていった企業が吉本というのもまた凄いとは思う。(話が反れ過ぎたが。)
そして、朝方、シャワーを浴びて、準備。
続々と登場して、懐かしい父のアルバムを母が持って来たので、それを見ながら時を待つ。
12:00、葬儀。
13:00、お別れの時が来た。
父の胸元に手を置く。
ツー・・・と、涙。
父の好きだった物、本、阪神グッズそのほかいろいろ入れられる。
周りからすすり泣く声。
私は、泣かないつもりでいた。
一枚の紙。
姉が20年ほど前に書いた「禁酒!」と、書かれた紙。
その横に「もう、飲んでもイイんだよ。よく、我慢したね。」
日本酒を蓮?の葉に乗せ滴を父の口へ運ぶ。
この作業が、私の涙腺の蛇口を全開にした。
もう、止まらない。
ブログでお酒のクダリを書いてる今も蛇口やばい。
祭壇に飾られた花などで覆う。
「・・・今まで、ありがとうございました。」
いよいよ、蓋が閉じられ・・・・
13:00、火葬場。
もう、何も言えない。
最後まで見届けよう。
これは見ておかないといけない。
そして、火葬場の扉が閉じられて一礼。
蛇口は開けっ放し。
そして、待合室で食事。
食えるかいな。
いや、皆さんが思ってるよりガラスなんですよ。
ホント。
だって、入院したその日の夜、食べに行く事を勧められて結局、食べなかったんだから。
でも、余った食事の分2人分完食。
(余って勿体ないのもあるけど、その前に食べるのも礼儀と思った。)
その前に、よく食べるのは家族ほか周りに私のこれまでのイメージでもある。
・・・食べようと思ったら食べれるんやね。
そして、納骨の時間。
焼けて、何も無い、姿に、また、蛇口が開く。
バスに乗って式場へ。
親戚ほかも帰り、家で祀る段取りを済ませて、昔のアルバムを引っ張り出して来て食事をしながら見る。
帰宅。
深夜、ひとりになると気持ちどうしようも無く、ビール片手にスーパーへ。
スーパーの前でたいよう・高須と遭遇。
つい、訃報を話してしまう。
そんな事聞かされても芸人もコメントできる訳無い。
ゴメンナサイ。
つい・・・芸人の皆さんに仕事の報告が遅れている事情を伝えていたら、そういう流れで、つい、なんです。
すいませんでした。
3月6日木曜日
徹夜というのもあるので、思ったより眠れた。
起床してTVを付けると「なるとも!」。
あぁ、今、この時間なんか。と。
作業があったのでしないといけないが、する気になれない。が、するしかない。
ちょこちょこと比較的簡単な作業を。
誰かと話をしないとどうしようもない気持ち。
今日は森ノ宮で担当している専門学校の進級公演と奈良で営業(余興)。
2~3日の出来事は勿論伏せておいて、生徒と話をしていると元気が出てきた。
人間ってイイですね。
パワーくれますね。
そして、集合時間が近かったので短時間でその場を後にし、難波で待ち合わせていた芸人と奈良へ。
人を元気にさせる笑売。
舞台でもその芸人さんとその修学旅行生のお客さんからパワーを感じました。
辛い、悲しい、これがひとつ胸に、また、自分を強くする。
気持ちが強さ。
人間って、イイよね。
父へ
これからも見守って下さい。
これまでありがとうございました。
追伸
父は姉を溺愛していた。
パスケースには幼少の姉の写真がいつも入っていて持ち歩いていた。
これが父のパワーの源だったのかもしれない。
30年近く持ち歩いていた。
それ、天国へ持って行く時、あの中へ入れ忘れた様な気がする。
少し、心残り。
長文、読んで下さった皆様、ありがとうございました。
個人的なブログで書くのは止めておこうと思っていたのですが、この数日間の出来事はやはり記録として個人的に残しておかないといけないと感じた次第です。
まだ、いろいろあったのですが、かなりハショって書きました。
これからも頑張ります。
頑張らないといけないから。
Posted by ながいまる at 01:14│Comments(0)
│ながいまるちゃんの戯言
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。